正式名は「名古屋港1・2号地間鉄道橋」。同じ跳上式である東京の「勝鬨橋(かちどきばし)」と比較すると、東京は昭和15年の建設で30年後に「開かずの橋」となった。名古屋は昭和2年の建設で59年後に「下りずの橋」となった。以後両者とも「開かず下りず」の日々…。 昭和初期、名古屋では紡績産業が発達し、原料となる綿花はもっぱら大阪港や神戸港からの陸送に頼るほかなかった。名古屋の港と駅を結ぶ臨港鉄道のために、 |
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運河を渡る橋ができれば、綿花は名古屋港に直接陸揚げできる。東神倉庫(現三井倉庫)の寄付金で、幅54mの運河を越える橋は完成する。もちろん船の航行を妨げる橋であってはならない。 紡績産業の町、名古屋を半世紀以上支えた可動橋だ。市民の要望により、歴史的産業遺産として跳ね上げたまま保存されている。ここが名古屋「運河ヘリテージング」の終点。 |